北名古屋市にある曹洞宗の寺院「天龍山霊松寺」

法話1.言葉について

 日本人の話し言葉のスピードは1分間に300字〜350字程度が聴きやすいといわれます。
 そうすると3分間に話せる文字数は900字〜1050字ほどという計算になる。
 また、人間が何かに集中していることができる時間は大人で50分程度、15分ほどの周期でピークが来るそうです。マックスは90分程度と聞いたことがある。学校の授業はこの集中力のデータ?を参照しているのかもしれません。そうなると、最も集中できる15分間には大体5000字程度の話し言葉を集中して聴くことができるということになります。しかし、話し言葉では「あ〜」とか「え〜」とか、つなぎ言葉(フィラーワード)も多用されるので、書き言葉の方が無駄がないと言えるでしょう。でも、このような「間投詞」「冗長語」は「間」を繋ぐ効果などがあり、単に無駄で耳障りなものとも言えないわけです。
 さて、「法話」は時と場所によって臨機応変りんきおうへんに話す時間が決められるわけですが、かつて山田無文やまだむもん老師ろうしなどは「三分間法話」(1982年初版刊行本)をされていました。何故3分間になったのか、だれが発案者なのか知りませんが、最近まで多くの宗派の僧侶たちがこれを踏襲していますね。
 ところで、禅仏教などでは、言葉というものは道を示す「道しるべ」であると言われることがあります。修行を進めるためには必要不可欠なものですが、どうも第二義的なものと軽んじられる傾向がある。しかし、この道しるべは「悟り」への道標です。悟りという言葉は特定の心境・境地を指すようですが、あいまいなところがあります。自分がそこに到達しているかが分かりにくいところがあって、道元禅師どうげんぜんじなども如浄禅師にょじょうぜんじ(お師匠さま)に向かって「安易に自分の境地を認証しないでください」と言っています。それで別表現を考えて、例えば「自己身心の理想的状態」「泰然自若たいぜんじじゃくとした境地」などという表現を思案してもなかなかうまく言えません。それで「筆舌ひつぜつに尽つくしえぬ絶言絶慮ぜつごんぜつりょのところ」と否定的表現になるわけです。そうなのですが、私たちは毎日言葉の中に生きており、それによって自己の意思を決定したり行動したりしているわけで、もっというと、私たちの心は多くの部分を言葉によって作られているとも言えます。ですから私たちは、言葉というものには絶大な力があることを知っております。我々の日常や人生は言葉に縛しばられているとも言えますね。それを「呪縛じゅばく」と考えるか「道標どうひょう」と捉えるかです。

法話2.活きた言葉

 小林秀雄の『無常ということ』という文に「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例があったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」というのがありました。中学か高校の授業で聞いて、その時は活きている人のほうが存在感がしっかりと感じられて、死んだ人はその記憶も時間とともに曖昧に薄れてゆくのだから、小林のこの言葉は納得いかないなあと思っておりました。
 しかし最近、小林の考えにも一理あると思えることがあります。というのも、生きている人間というものは絶えず意見を変えたり優柔不断であったり変わるものだから、随分いい加減な感じだけれでも、まあそれもよく考えれば絶えず進化発展(?)していると言えないわけでもないのです。一方死んだ人の情報というのはいったん打ち止めになっているわけですし、例外もありますが、人格的評価というものもある程度確定しているのですから、しっかりした印象です。ですから、小林の見解にも頷けるのですが、ここでは生きた人間もまんざら情けないだけではなく、死んだ人よりいい面があるということが言いたいわけです。
 「対機説法(たいきせっぽう)」という言葉がありまして、これは仏教においてお釈迦様が相手に即した縦横無尽のお説法をされたことをいうのです。こういうことは、死んだ人間にはできません。もっとも立派な人間の言葉というのは、その人物が死してなお、人々に感化を与えるということもあります。これはむしろ、聞き手(受信者)の心の在り方の問題です。普通はやはり生きた人間が活きた会話の中で、おたがいに影響を及ぼしあうような言葉のやり取りをおこなうわけです。こう考えてみますと、生きた人間は危なっかしい部分もありますが、まんざらでもないと思うわけでして、そういう他者に感化を与えるような言葉をかけられるような人になりたいものです。
 そのためには、自分がぶれていてはなりません。まっすぐに立って如何なる状況においても的確な判断と柔軟な発想ができるのでなければなりません。そうなるためには、日頃から坐禅で心胆を鍛えておかなければならないと言いたいのです。とてつもなく難しいけどね。